【89】 京都の秋 2005 その2                2005.11.30−12.01


     〜嵐峡館〜大悲閣〜亀山公演〜大河内山荘〜清滝〜水尾〜先斗町 泊



  嵯峨野竹林〜野宮神社〜常寂光寺〜落柿舎〜ニ尊院〜祇王寺〜化野念仏寺 その1
  2日目 … 金福寺 〜 詩仙堂 〜 圓光寺 〜 曼殊院  は    その3




 化野念仏寺を後にした僕は、渡月橋界隈へと引き返すことにしたのだが、もと来た道を帰るのでは能がないと、清涼寺方面へ走ってみた。途中、「寂庵はどちらでしょうか」と男の人に声を掛けられ、僕も知らなかったのだが、すぐ横に表示板があった京都の秋 2005 寂庵(瀬戸内寂聴邸)前にて。この旅でタダ1枚のショットである。ので、「こちららしいですね。寂庵って何ですか」と聞きながら、一緒に行ってみた。門に「瀬戸内」と表札がかかっていた。瀬戸内寂聴さんの京都の私邸だ。隣が空き地で、「売り地相談」の看板が立っていた。
 邸内には何本かの見事なモミジの大木が、真っ赤な葉をつけていた。門の前で、男の人にシャッターを押してもらった。
 京都の秋2005

← 渡月橋近くの旅館で、舞妓姿のモデルを使って、写真撮影をしていた。宣伝用のパンフレットを作っているのだろうか。

京都の秋2005  嵐峡館の庭

 渡月橋を渡って川沿いの小道を上流へ走り、「嵐峡館」でお昼をとった。ここの屋号は、頭に嵐山温泉と付いていて、日帰り入浴客も受け入れている。「ナントカ着物学院」の会があり、50人ほどの和服姿のご婦人方がお越しであった。ほとんど妙齢の方々…。



 嵐峡館の左手の山の中腹に、豪商角倉了以が晩年を過ごした「大悲閣」がある。了以は京都生まれ、祖父のころより土倉(今の質店)を営み巨大な高利貸資本を蓄積、朱印船で海外交易(角倉船)も行い、莫大な富を得た。国内では河川の開削・改修を手がけ、京都木屋町の高瀬川開削は有名。ここ嵐山を流れる大堰川や、富士川・天龍川などの開削も行っている。
 ちなみに、嵐山の山あいを流れるこの清流は、京都市の北部の山(佐々里峠)を水源とし、世木ダム・日吉ダムを経て、上流部は上桂川・大堰(おおい)川と呼ばれる。亀岡の保津橋より保津川と名を変え、保津峡を下る。嵐山に至り、渡月橋を過ぎると桂川と名前を変えて南流したのち、大阪府との境で宇治川大悲閣へ登る階段途中に微笑む石仏と合流して淀川となる。
 了以は、岩だらけの大堰川を開削して船が通れるようにし、丹波・山城間の物流に大いに貢献した。今、保津川を観光船が下っているのも、了以の開削のおかげである。
 「大悲閣」は大堰川の工事で命を落とした人を弔うために、了以が建立した仏閣である。嵐山の中腹にあって、保津川を見下ろす景観の地にあるから、入り口の看板には「絶景」と大書されている。ただ、急な階段を登らねばならず、自転車で消耗した僕の足は、途中で2回ほどの休憩を余儀なくされ京都の秋2005 た。
 展望窓からの眺めは、ここまでの疲れが吹き飛ぶ見事さだ。嵐山や小倉山の山肌の紅葉の間を保津川が流れ、視線を上げると京都の市内の向こうに東山連峰が連なる。


      大悲閣の仏間の窓からの眺望→


 ↓ 上流から渡月橋を望む
京都の秋2005






 観光客には知られていないのか、渡月橋から遠すぎるのか、訪れる人は少ない。了以は晩年をここで過ごしたと聞いたので、「年とってからの住家としては、階段がきついね」と言うと、若い住職は「昔の人の健脚は、今の人とは全然違いますから」と言って笑っていた。



京都の秋2005 嵐山公園のモミジ
 また、渡月橋を渡って右岸へ戻り、嵐山公園(亀山公園)を訪ねてみた。


 公園の奥、京都の秋2005 大河内山荘大乗閣小倉山の南麓に広がる「大河内山荘」は、丹下左膳などの時代劇で活躍した、ご存知「大河内傳次郎」が、36歳のころから約30年かかって築き上げたという大庭園である。京都で撮影があると、傳次郎はこの山荘に滞在し、瞑想にふけったり念仏を唱えるなど、思い思いの時を過ごしていたとか大河内山荘から、西の山を望む。嵐山の中腹に大悲閣が見える。
 2万uの敷地に傳次郎が命を注いだという庭園は、歩を進めるごとにさまざまな表情を見せてくれる。
 入口には竹林、大乗閣には紅葉、持仏堂には松、滴水庵には苔を配し、月香亭からは市内の眺望…。振り向けば、保津川対岸の嵐山の山肌に、先ほど訪れた大悲閣が鎮座している。京都の秋2005









     縁台に腰掛けてお抹茶をいただく↓

京都の紅葉 2005 大河内山荘

← 月香亭からの
  京都遠望

 


 せっかくここまで来たのだからと、邸内の「静雲亭」で一番安い湯豆腐を食べた。




 京都の紅葉 2005 清閑 清滝午後4時過ぎ。駐車場へ戻って車に乗り、清滝へ向かう。清滝道の両側の紅葉も美しい。試峠を越える清滝トンネルは、車がやっと一台通れるという狭さだ。対向車線は、山の上を走っている。
 訪れた清滝の町は、時間が遅いせいか、家々の戸は閉ざされ、全く人影がない。渓谷の紅葉は少し盛りが過ぎたころ…、あたりが薄暗くなってきて、紅葉の色もいまひとつ映えない。




 今日はそろそろ終わりにして、市内へ戻ろうか…とも思ったのだが、この界隈でどうしても訪れたい地がひとつ残っている。清滝口から愛宕山の山麓を北西へ10Kmほど登った「水尾」の村落を訪ねてみたかったのである。
 水尾は、京都市右京区嵯峨水尾町…という地名だ。右京区ナニガシという町名や位置的に見て、京都の奥座敷といった風情かと思っていた。ところが行ってみるととんでもない所で、車の対抗もできない細い曲がりくねった山道を、30分ほどひた走ったところにある、山間の暗闇に潜むひなびた山里であった。
 1582(天正10)年5月のある夜、水尾は、誰にも知られないままに、日本の歴史を変える舞台となる。
 同年6月12日未明、中国地方へ向かうために老いの坂を下っていた明智光秀の軍勢は、急遽矛先を転じて、京都市内に宿営していた織田信長を襲った。世に言う、本能寺の変である。
 これに先立つ5月下旬、光秀は愛宕山に参詣し、愛宕五坊の一つである西坊威徳院で催され連歌の会に参列している。席上、発句を光秀が詠み、脇句を威徳院の行祐法印、第三句を連歌師の里村紹巴がつけた。全九名で100韻を詠み(愛宕百韻)、書き留めた懐紙を神前に捧げた。
 ここまではよく知られた、歴史の表舞台の光景であり、このとき光秀の詠んだ発句『ときは今 あめが下しる 五月哉(さつきかな)』は有名で、古来、さま大悲閣の石段で拾った落葉ざまな解釈がなされている。
 さて、光秀はなぜ信長を弑したのか。ここに、愛宕山のふもとにひっそりと黙座する「水尾」が登場する。
 愛宕山で連歌の会に参列した光秀は、そのあと一人で念仏を唱えて一夜を明かすとして、愛宕権現の念仏堂へ篭る。その夜、正親町天皇は密かに水尾に行幸され、念仏堂を抜けて山を下った光秀と密会したというのである。
 本能寺の変のあと、秀吉による厳しい詮議が行われ、この夜の連歌に参会した人々にも聴取が行われたが、誰一人として、この夜、光秀が山を下ったと証言したものはいない。


 愛宕山一の鳥居横の小道を入ると、すぐに車の対向もできない細い山道が続いている。すでに薄闇の迫る曲がりくねった細道をひたすら走っていくと、10分ほど走ったところで、左下に灯りが見えた。山陰本線「保津峡駅」の灯りだ。
 まだ、水尾までの道のりの3分の1ぐらい来たところ。車に積んでいたビスケットをかじりながら、さらにつづら折の道をひた走る。途中、2台の対向車に行き交ったが、走り慣れているのか、こちらのヘッドライトを見て、広がっている箇所で待っていてくれていた。2台とも山仕事の帰りだろう、軽四輪のトラックだった。
 暗闇の中の山道を30分ほど走っただろうか、左手に人家が見えた。薄暗い蛍光灯の光に浮かんだ文字は「水尾公民館」…、着いたーッ。
 それにしても、人っ子一人歩いていない京都の秋2005 水尾「柚子風呂丸源」の看板。ところどころにポツンポツンと家の灯りが見えるが、その周りは漆黒の闇である。
 一軒、門口に明かりをつけて、門を開いている家があった。看板が掛かっていて、「柚子風呂 丸源」と書かれている。お風呂屋さんなのだろうか、通行人も見かけないところで、風呂屋って何だ?風呂好きの僕も、さすがに入ってみようかという気にならずに帰ってきたが、あとで聞いてみると、水尾は「枇杷や松茸とともに柚子が特産品で、冬季、水尾の各家でたてる柚子風呂は薬効があり、最近は入湯に訪れる人も多い」とか。銭湯だったンだ、知っていれば、入ってきたのに…。
 この道も、かつては丹波と京都を結ぶ主要な街道であった。戸数は100戸を数え、人口も1000人近くを擁したという水尾だが、延宝7(1679)年の大火を契機にさびれ、山陰本線の開通以降は、街道を通る人影もなくなり、より寂びしい山里になってしまった。
 清和天皇の崩御の地と伝えられる水尾では、天皇に仕える女官の赤い袴の遺風を伝えて、今も女の人は赤い前垂れを身にまとうという。正親町天皇が光秀との密会場所にこの地を選んだのも、あながち根拠のないことではない。光秀は水尾の密議で、天皇直々に信長弑殺を宣下賜ったのだろうか。信長を誰よりも恐れ、信長によって取り立てられてきた光秀の謀反を決意させたものは何であったのか…。全ては、水尾の夜の暗闇だけが知っている、歴史の彼方のロマンである。




 市内へ戻り、食事…。今夜の宿は、「ホテル アルファ京都」に空き部屋があった。三条川原町の角だかM88 Kyoto2005-ら、車を入れておいて、歩いて食事に出たほうがよい。
 すでに時刻は午後7時過ぎ。ご飯を食べる前に、南座で演っている「坂田藤十郎襲名公演」をのぞいてみた。良い演目があれば、立ち席でも一幕見ていこうかと思ったのだが、夜の部の開始は4時45分から…。8時になろうかという今は、当然ながらもう口上も終わって、本朝廿四孝藤十郎の八重垣姫の最中だという。あとの演目には藤十郎は出ないし、空きっ腹を抱えて入るほどのこともないかと、食事にした。


             京都の歳末風景 南座のまねき →


 先斗町「招月庵」。カウンターの端っこに陣取り、今日のおまかせM88 Kyoto2005-招月庵…、椀物、蒸し物、鴨の治部煮と秋野菜の合わせ煮など、その温かさが美味しい。もう、そんな季節になってきているのだ。


 明日は、午後6時から津で会合がある。「欠席してもいい?」と電話したら、「絶対にダメ」と言うので、午後2時過ぎには京都を発たなくてはならない。
 ブラブラ歩いて、11時半、ホテルへ戻った。



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